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2014年8月6日水曜日

マイケルの56回目の誕生日を前に[4]アポロ11号とムーンウォーク





アポロ11号とマイケルのムーンウォークは、
結局どちらが人類にとって大きな一歩となったのか?

僕たちが小さいとき何にワクワクしたか思い出してみると、流線型の特急電車とか、ジェット機、ロケットといったものでした。その終着点として、人間の月面着陸という偉業があったんだと思うわけです。

しかし、そのスタイルは、アポロを境にして次第に説得力を持たなくなって行った。というのも、人工衛星というのは、そもそもそれに乗ってどこかに行くためのものではない。むしろ通信の時代を切り開いて行った存在です。人々が見たい、聞きたいコンテンツを地球のどこへでも届ける働き。冷戦終結には、これが大きかったわけです。

80年代までいくと、アメリカのポップ・パワーが共産圏を揺るがして、結局壁を壊してしまった。これをマイケルたちの偉業とは言えないにしても、歴史を前に進める「効果」としては甚大なものがあった...

つまり、世界の人の心に染み込んだのかという基準で考えてみると、マイケル・ジャクソンと言う存在は、世界史における支配的な力であったと言えるんじゃないか、ということを考えてみたわけです。





先鋭的なロックばかりを追ってきた僕らの世代にとってマイケルがあまり偉大とは考えられなかった要因というのがあると思うんですよ。マイケルの音楽の良し悪しというよりも、僕たちがロックを真面目に聞いていた頃には、視覚的なものを、音楽にとって邪魔なもの、音楽の良さを壊すものと考えていなかったでしょうか。

ロックとポップスでは、批評の基準がおのずと変わって来るでしょう。ロックの場合は作家性といった、音楽のロマンティシズムを連続した見方が可能だと思いますが、ポップあるいは、ポップスターは、結局、見ている人の視線が作るのだと。

つまり、その数が大きくなればなるほど、いいものができる。そのいい例がマイケル・ジャクソンだと思います。





ボブ・ディランが65年の会見で、「あなたは自分のことを歌手として見ていますか、詩人として見ていますか」と記者に聞かれたときに、「ソング&ダンスマンだ」と答えたことがありました。歌って踊れる芸人だと。

それがエレクトリック時代に入り、アリーナでアンプリファイされた音を通してやるようになったらどうなるか。本当に電気回路やメディアと合体した肉体を持つ、ソング&ダンスマン。それがマイケル・ジャクソンだったのではないかということです。






あるいは別な面から言えば、マイケル・ジャクソンの世界には、過去の伝統が滔々と流れ込んでいる。様式にしても、興行方法にしても。そうしたポップのメインストリームの伝統をそっくり引き受けながら、現代のメディアの中で、芸を演じる。逆に言えば、ポップ産業全体が、彼のようなアーティストを軸にして回転している。お金を生む機構に彼自身がなったと言っても同じです。

その中心に収まる人は、ある意味で、クリエイティブな思考をしてはいけなくて、ポップの法則になりきることが求められた。マイケルは非常に才能があって、若くて、フレキシブルだったから、そんなとてつもない要求に適応できてしまった…






その適応のスムースさは感嘆に値すると思うのですが、ロックファンからすると、彼の内にあるものが何も出てこない、という不満になります。うまくは言えませんが、僕たちが気持ちよく聴き過ごすポップミュージックというものが変わっていくためには、そういうフレキシブルというか、非常に柔らかい存在が自在の活躍をする必要があると思うわけです。マイケルはその仕事を10代、20代、30代とやり続けた人なのだなと感じます。

「自在」と言いましたが、それは自分を押し出すというのとは違って、むしろアイデンティティの消失に向かうような動きです。マイケルは結局、白人でも黒人でもないもの、大人でも子供でもないもの、とにかくリズムに合わせてキレさえ持っていればいいもの、そういうところに入り込んだ人なのかなと...


2009年8月臨時増刊号『現代思想』
Song and Dance Man ー マイケルと共に、世界は歌い、踊りはじめた
(佐藤良明+ピーター・バラカンによる対談から、佐藤氏が語った部分を抜粋して引用)





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